2017年11月12日日曜日

庵野秀明「シン・ゴジラ」

昨年公開された話題作がはやくも地上波登場ということで楽しみにしていた。
巨大不明生物は羽田沖から呑川を遡上する。呑川はかつて大森と蒲田を区境に流れていた河川であるが、今は新呑川と呼ばれ、蒲田側を流れている。
巨大不明生物があらわれたのは蒲田だ。金春、歓迎、你好など餃子の名店はだいじょうぶかと心配になる。
この時代の人たちは昔ゴジラを映画で観なかったのだろうか、なかなかゴジラと呼ばない。政府の対応も後手を踏む。なかなか大人の映画だった。
リヤカーに家財道具を積んで逃げ惑う人もいなかった。みんな大人になっていた。

2017年11月3日金曜日

アンヌ・エモン「ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で」

久しぶりに映画館に足をはこぶ。
YEBISU GARDEN CINEMA。
実在したカナダの女性作家が主人公だ。高級エスコートガールから作家に転身し、書くほどに自分自身を喪失していく。やがて破滅的に自死を遂げる。
ところどころフランス語の単語が聞きとれる。テレビやラジオのフランス語講座で例文になるような文章。もちろん聞きとれない部分の方が圧倒的だ。
すいすいとわかるようならもっとちがう人生を歩んでいたはずだ。
恵比寿ガーデンプレースではバカラのシャンデリアが点灯していた。

2017年9月25日月曜日

今西隆志「機動戦士ガンダム THE ORIGIN I~IV」

1979年にテレビ放映された「機動戦士ガンダム」、いわゆるファーストガンダムは81~82年に劇場版が公開された。
たいして知識はなかったが、何度も観ているうちに主人公はジオン軍の軍人シャア・アズナブルであることがわかる。その妹はセイラ・マスでこちらは連邦軍のパイロットだ。
そしてふたりはジオン公国のつくったジオン・ズム・ダイクンの遺児であることがわかってくる。
ファーストガンダムはどちらかといえば連邦軍にスポットが当てられている。アムロ・レイがモビルスーツガンダムの開発者テム・レイの息子であることもわかる。
ところがシャア・アズナブルとセイラ・マス(キャスバル・レム・ダイクンとアルテイシア・ソム・ダイクン)の生い立ちに関しては靄がかかったままだった。
と思っていたらこういうストーリーがちゃんとあった。
『ガンダムエース』というガンダム専門の漫画雑誌に連載されていた。その後このコミックが映画化され、シャア誕生の秘密が明かされることになる。

2017年9月13日水曜日

前田司郎「ふきげんな過去」

旧東海道の品川宿あたりが舞台になっている。
新馬場駅の近くだろう。島倉千代子が生まれ育った北品川だ。
果子の通う学校はかもめ橋の向こうにあるようだ。八潮団地にある設定なのだろう。
地元というには少し遠いがよく散策する地域が映しだされている。それだけで親しみがわいてくる。
ストーリーもよくできている。いい映画だった。

2017年9月1日金曜日

リドリー・スコット「ブレードランナー ファイナル・カット」

2020年。
オリンピック・パラリンピックの東京開催も近い。
BSで録画した「ブレードランナー ファイナル・カット」を観る。
2019年の話だ。公開当初の1982年には思いもよらなかった世界が描かれている。
おそらく再来年までにクルマは空を飛ばないだろうし、液晶ディスプレイがブラウン管に戻ることも考えにくい。
もちろんレプリカントなんて生産されはしないだろうが、アンドロイドはOSとして跋扈している。
映画で描かれた未来はこうしてたえず現実とくらべられる。滑稽にも思われる。
だけど映像製作者の未来に挑む姿勢は高く評価したい。

2017年7月5日水曜日

小林正樹「この広い空のどこかに」

高峰秀子が川崎の酒屋森田屋の娘役。
空襲で足を悪くした。心に思う人はいるけれど屈折した人生を送っている。
成瀬巳喜男監督「乱れる」では静岡の酒屋、やはり森田屋という名だったが、夫に先立たれた嫁の役だった。
次男である加山雄三と恋に落ちる。
川崎の森田屋は佐田啓二、久我美子の長男夫婦が店を切り盛りしている。母は浦辺粂子、次男石濱朗。
何かが起こりそうな起こらなさそうな。
結局何も起こらない。
よかった、何も起こらなくて。

2017年6月20日火曜日

是枝裕和「海街diary」

時の流れにほったらかしにされたような古民家に住む四姉妹の物語。
鎌倉の海沿いの街がよくマッチしている。
人が死ぬことで少しづつ時間が動く。運命だけがよどみのような時間に流れをもたらす。
大竹しのぶが、堤真一が、この安定をかき乱そうとする。
が、やがて泥が沈殿するように静かな流れが取り戻される。
そういえばしばらく鎌倉に行っていない。

2017年6月16日金曜日

斎藤武一「愛と死をみつめて」

「キューポラのある街」に続く吉永小百合の名作。
顔を半分隠しての大ヒット、吉永小百合の存在感が際立つ。
子どもの頃テレビドラマで視た記憶の中のミコは島かおりだった。
不治の難病に冒され若くして死んでいくヒロインを見るのは悲しすぎていやだった。
今、歳をとってから見てみると不思議と浜田光男の立ち位置ではなく、笠智衆に感情移入してしまう。
大阪の病院を見舞って列車で兵庫に帰る父。ミコとマコがホームで手を振る。車窓から手を振り返す父。
やがて娘の姿が見えなくなり、父はひとり嗚咽する。
めずらしくほとばしる感情をおさえきれない笠智衆の演技。
いちばん泣けるシーンだった。

2017年6月5日月曜日

若松節朗「柘榴坂の仇討」

柘榴坂は品川駅前から二本榎の方に上っていく坂だ。
事の起こりは安政7年3月3日、桜田門外の変。
井伊掃部頭の警護をしていたのが志村金吾、駕訴状を持って金吾に第一刀を振るったのが佐橋十兵衛。
彼らは歴史上の人物ではない。創作された登場人物だ。
原作は浅田次郎。
彼らしい大人のおとぎ話だ。

2017年6月4日日曜日

加藤威史「映画立川談志」

落語が好きで若い頃から寄席に通っていた父であったが、滅多に落語家を褒めることはなかった。
唯一うまいといったのが立川談志だった。
僕は何度か落語を聞きに行ったことはあるけれども、目の前で観る落語は臨場感があってどれもすばらしいとしかいいようがなかった。
談志の高座を観ることはなかったが、やはり同じように感動しただろう。もちろん談志のよさに気が付くことはなかったと思うけれど。
「芝浜」はいい噺だった。

2017年6月2日金曜日

浦山桐郎「キューポラのある街」

NHK朝のドラマ「ひよっこ」でトランジスタラジオをつくっている。
集団就職で上京した若い女性たちが流れ作業で電子部品を組み立てている。
昼休みにはコーラスを楽しんでいる。
関川夏央の『昭和が明るかった頃』を読みはじめた。
「キューポラのある街」が観たくなった。
早船ちよの原作を今村昌平と浦山桐郎が脚本化した。浦山の監督デビュー作である。
助監督から監督に昇格する際最初の作品は2本立て興行の一本、SPと当時呼ばれた一時間程度の作品を撮らせるというが、この映画は例外的に100分ある。
関川夏央の本にそのエピソードが描かれている。
高度経済成長がはじまろうとしている。
子どもたちは「所得倍増」を口にする。
とはいうものの、鋳物の街は貧困の中にある。
鋳物工場を解雇されたジュンの父親が再就職してさっさと以前のように働きさえすればこのドラマは生まれなかっただろう。
ジュンは修学旅行にも行けただろうし、志望校へも進学できたはずだ。
労働者ではなく職人だという父親の矜持と弱さがすべての引き金となっている(もちろんの背景となる時代や社会がいちばん大きな鍵をにぎっている)が、そこから生じるさまざまな挫折を乗り越え、新しい未来を創り出していくところにこの映画の普遍的な価値がある。

2017年5月26日金曜日

ミシェル・ゴンドリー「エターナル・サンシャイン」

古い予定表によるとこの映画を2005年3月30日に観ている。
記憶を消し去られる男と女の物語だ。
長い歳月を経てもういちど観てみると記憶を消し去られていたのは登場人物だけではなく僕自身もそうだったことがわかる。
記憶の彼方に追いやられていてしまった映画だ。
ジム・キャリーというとコメディ俳優と思っていた。「マスク」の印象が強かったせいだろう。
この映画ではそんな感じはぜんぜんしなかった。

2017年5月17日水曜日

崔洋一「血と骨」

2004年の公開時に観た映画をもういちど。
あらためて観てみると、俊平の息子正雄はテレビドラマ「下町ロケット」で帝国重工の研究員だった新井浩文だったとわかる。濱田マリが連れてきた長女はファブリーズのCMでおなじみの平岩紙だ。かまぼこ職人からやくざの親分になった北村一輝も当時はおそらくその名を知らなったと思う。
原作は梁石日の同名小説となっているが、むしろ作者の回顧録である『修羅を生きる』に基づいていると思う。
原作者の父親がほんとうにこんな人であったとするならば、これはちょっとした恐怖映画である。

2017年5月5日金曜日

三木孝浩「くちびるに歌を」

舞台は長崎五島列島。流れる主題歌は「手紙~拝啓十五の君へ」。臨時教員でやってきた先生は不幸な過去を引きずる天才ピアニスト。お膳立てはじゅうぶんだ。名作感がただよう。
新垣結衣、木村文乃の他にも井川比佐志、角替和枝らしぶい配役が島の情緒を醸し出す。
だがなんといってもこの映画の主役は15歳の少年少女だ。
15年後ではなく、15の頃の僕がどこで何をしていたかさっぱり思い出せない今日この頃である。

2017年5月3日水曜日

中野量太「湯を沸かすほどの熱い愛」

観そびれた映画を早稲田松竹で。
おもしろかったという人がけっこういたんでね。
でもこのラストはどうなんだろうね(もちろん結末は書かないけど)。

2017年4月14日金曜日

スティーブン・スピルバーグ「ターミナル」

ほとんどのシーンがジョン・F・ケネディ国際空港である。
大きな空港だからさまざまなシーンにめぐり会うことができる。それでも舞台は空港。
そういった意味ではミニマルな映画だ。
もし自分が同じような境遇になったとしたら、やはり英語が理解できないのはつらいだろうな。英語が話せるのに話せない役を演じるのもたいへんだろうけど。
ピーナツ缶のエピソードはいい話だった。
村上春樹の『セロニアス・モンクのいた風景』を読んでみたくなった。

2017年3月10日金曜日

ロバート・ゼメキス「フォレスト・ガンプ」

ロバート・ゼメキスは時空間を縦横に飛びまわって映画をおもしろくする天才だ。
この映画はとりわけ観る人を幸せにする特別な才能を持っている。
バックに流れるその時代時代の音楽がまた心地いい。
今、幸せな気分に包まれている。

2017年3月8日水曜日

五所平之助「黄色いからす」

外地で抑留されていた父親が帰ってくる。
息子と会うのははじめただ。
帰還後、仕事も息子との接し方もギクシャクする父。終戦後しばらくのあいだ、もしかするとどこででも見られた光景なのかもしれない。
鎌倉の海辺の町で小さな事件がつみかさなる。家族はやがて危機を乗り越えていく。
それにしても子どもというものはなんとたっぷりとした時間を過ごしているのだろう。
一日が長い。
うらやましい限りである。

2017年2月27日月曜日

小津安二郎「風の中の牝鷄」

四方田犬彦が『月島物語』の中で紹介している小津安二郎監督の松竹映画。
千葉泰樹の「下町(ダウンタウン)」同様、夫の復員を待つ妻がひと夜限りの過ちをおかす。
女性がひとりで(あるいは子ども連れて)生きていくことが過酷な時代だった。
夫佐野周二が月島を訪ねる。隅田川沿いにたたずむその背後に勝鬨橋が見える。
四方田によれば、この作品と翌年の「晩春」以降、下町はわずかな例外をのぞいて小津作品から姿を消し、舞台は東京近郊の山の手や湘南に移っていく。
小津の生まれは深川だった。

2017年2月21日火曜日

実相寺昭雄「帝都物語」

原作は荒俣宏。脚本が林海象。
「怪奇大作戦」や「シルバー仮面」の世界に実相寺昭雄の映像詩的な世界がまぜ合わさったような作品。
昭和の森に銀座通りを再現したオープンセットをつくって話題になった。市電も走らせた。鉄道少年実相寺には欠かせない巨大小道具だったにちがいない。
1980年代後半はフィルムからビデオへの移行期。いたずら好きの実相寺昭雄が果敢に挑んだハイビジョンVFX映画だ。

2017年2月17日金曜日

黒澤明「まあだだよ」

黒澤明30作目の作品。
原作は内田百閒。
戦中戦後の目まぐるしい時代をのどかな師弟愛でつつみこんでいる。
松村達雄はいつもいいお父さんだったり、目立たないけどいい芝居をする脇役だったりする。今回は先生役でしかも主役。ちょっと頼りなさそうな主役だけれど内田百閒がモデルならそれも納得できる。
奥さんは香川京子、教え子の代表格は井川比佐志。ユーモアに富んだ先生のキャラクターを所ジョージや寺尾聰、平田満、岡本信人らがしっかり支えている。
先生とともに黒澤明の人生もその数年後、静かに幕を閉じることになる。
これが最後の作品であると思うとちょっとうらやましい映画人生だったのではないかと思えてくる。

2017年1月24日火曜日

山本薩夫「皇帝のいない八月」

戦後30年以上経た1978年。僕は大学生になった。
大学には平和憲法を守るんだと声を上げる若者たちが多くいた。
寝台特急さくらをジャックするクーデター。憲法を改正し、ふるきよき美しい日本を取り戻そうと行動を起こす元自衛隊員がいる。
元自衛隊員の妻は吉永小百合。彼女とかつて将来を誓い合った雑誌記者が山本圭。
複雑な人間関係がひとつの列車に乗り合わせる。
三國連太郎、丹波哲郎、佐分利伸、大地喜和子、高橋悦史、さらには岡田嘉子に渥美清とキャストも豪華な作品だ。
ラストシーン。銀座の歩行者天国を闊歩する若者たち。平和を当たり前のことのように思っていた自分が映っているようだ。

2017年1月23日月曜日

野村芳太郎「ゼロの焦点」

ごく普通の(仮にそんなものがあるとすればだが)殺人事件が松本清張の眼鏡を通して見ると複雑な様相を呈してくる。
人を殺す動機は、憎しみでも恨みでも金銭トラブルでもなく、消し去りたい暗い過去なのだ。
それでもってやっかいなのは誰もが好きで暗い過去を引きずって生きているわけではないということだ。
松本清張の想像力はそんな人間の本質のど真ん中を抉っていく。

2017年1月4日水曜日

マイク・ニコルズ「卒業」

もう何度か観ている映画なのに、ちゃんと観た感じがしない。
どことなく浮ついた青春映画だからだろうか、あるいは観るものをして浮ついた気持ちにさせてしまうからだろうか。
明日から仕事という正月休みの最後に観たせいもあるかもしれない。この映画を観るときはいつも浮ついて観ていたのかもしれない。
それにしても強引というか豪快なストーリーだ。青春映画ってやつはこういうことでいいんだという勢いすら感じさせる破天荒な名作だ。

2017年1月2日月曜日

ロバート・ゼメキス「バック・トゥ・ザ・フューチャー」

大晦日から元旦にかけて、あまり映画を観ない僕が一年かけて観るくらいの映画をNHKBSで放映していた。
とりわけ深夜の「ゴッド・ファーザー」はたて続けに三本観たかったけれどあまりに深夜過ぎた。
元旦の午後、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を観る。細かい時代考証がよくなされている秀作だ。タイムスリップものやタイムトラベラーものは突きつめれば突きつめるほど矛盾をかかえるので難しいはずなのに。
ただ今観てみると起点となる1985も1955も同じように「昔」に思えてしまうのがかなしい。